「なぜ子どもたちは年々幼くなっているのか?」学校現場の戸惑いと社会の幼稚化【西岡正樹】
「話を聞けない子どもたちが増えている」
この実感は、現役の教師ならばほとんどの者が持っているのではないだろうか。そう感じられる明確な理由が一つある。それは、「聞いているふりさえできない子どもたちが増えている」ということ。ひと昔いやふた昔前は、実際聞いていなくても、聞いているふりをしてやり過ごす子どもがたくさんいた。聞いていないということは同じでも、聞いているふりができる子は、少なくとも、「今何をする時なのかが分かっている」から聞いているふりをするのだ。
また、「聞く(聴く)」ことは、根気のいる行為だ。「見る」という行為とは異なり、言葉から自分のイメージを創り出さなければ、次の自分の行為に繋がらない。すぐにイメージが浮かばない時には、「聞く(聴く)」ことを繰り返すしかない。しかし、「がまんする」ことができなければ、幼い(幼稚な)子どもたちは「聞く(聴く)」ことからの逃避を、すぐさま始めてしまう。幼い(幼稚な)子にとって、「聞く(聴く)」ということは容易ではないのだ。
子どもたちは、「遊び時間」と「授業時間」を行き来しながら、学校生活を送っているのだが、子どもの気持ちとしては「自由」(プライベート感)と「不自由」(パブリック感)がずっと繰り返されているという感じなのだろう。場面に応じて、「自由」と「不自由」を自由に行き来できている子どもは、「今何をする時なのか」が分かっている子どもだから、「授業時間」は「我慢しなければならない」と自分に言い聞かせることができる。しかし幼い(幼稚な)子どもはそれができない。
「独りよがり」=幼い人(幼稚)は、他者が存在していないし、より幼く(幼稚に)なればなるほど、他者を意識できない。逆に、他者を意識すればするほど、「がまんすること」も増えてくる。滑り台の下に並んでいる保育園の子どもたちは、一人で滑る滑り台を「みんな」でしている。他者意識やみんな意識が芽生えてくると「独りよがり」ではいられなくなることが分かっているのだ。幼さ(幼稚さ)は年齢ではない。それは、滑り台の下で静かに待っている保育園児たちの後ろ姿が教えてくれているではないか。
毎年のことだが新年度が始まると、私は担任した子どもたちに、必ず「幼稚とは何かな」という話をする。(低学年の場合)
「みんなは『幼稚』という言葉を知っていますか?」
「知ってる。幼稚園の幼稚」
「そうだよね。幼稚園の幼稚だ」
「では、みんなは幼稚な人になりたいですか?」
「なりたくないです」
「どうして?」
「もう小学生だから、幼稚園生のような幼稚になりたくない」
「そうなんだ」
高学年、低学年に対する言葉の違いはあるにしても、だいたいこのような会話が成立する。そして、ほとんどの場合、子どもたちは「幼稚」という言葉に拒否反応を示すのだ。
そこで、
「それじゃあ、みんなに幼稚な人ってどんな人なのか、教えてあげようか?」
「うん」
「まず一つ目、『幼稚な人は、話が聞けない』んだよ。二つ目、『幼稚な人は、今何をやっているか分からない』んだ。そして三つ目、『幼稚な人は、みんなでできない』んだよ。この三つができない人は、とても幼稚な人だと思うよ」
さらにもう一つ、子どもたちに大事な話をする。
「人間は一人では生きていけない動物だよ」ということ。それは、私が子どもたちと学級活動をする上で欠かすことができない考えだからだ。
「人間は一人で生きていけない動物」だから、他者を尊重し、他者と繋がり、自分のため、みんなのために自分が何をするべきかを考えることが大切なのだということ。私は子どもたちに繰り返しその話をする。何故なら、子どもたちがそのことを理解していなければ、教室は一つの共同体として成立しないからだ。それは、学校に限ったことではないだろう。
この共同体感覚が薄れてきていることと、日本人(子どもから大人まで)が「幼く(幼稚に)なっている」ことは切り離せないものなのではないかと、私は思っている。そのことは、学校内外で起こる様々な出来事が物語っている。ここでは詳細は省くが、前述の大型書店の出来事や、電車の中の出来事は、まさしく教室の中で起こっていることと同じである。
幼い(幼稚な)子どもたちは、学校や地域の中で多くのことを体験し、学ぶことで脱皮を繰り返し、やがて子どもたちのなかに共同体感覚が目覚めていく。そして、幼さ(幼稚)から抜け出していくのだろう。
さて、大人たちはどのようにして、幼さ(幼稚)から抜け出していくのだろうか。
文:西岡正樹
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